2018年も映画は裏切りませんでした。毎年毎年新しい傑作が生まれ、飽きることを知りません。観客たちの揺さぶられたさまざまな感情が染み込んだ映画館こそ、現代の歌枕と言ってもいいのではないでしょうか。
年末なのでいろんなところでいろんなジャンルが1年間を総括されランキング化されていますが、縄文zineでも今年上映の映画の中で、縄文的に特に印象に残った映画を5つあげてみたいと思います。
※縄文映画とは、縄文そのもののジャンル映画というわけではなく、あらゆる映画の中に潜む縄文的なテーマやエッセンスを勝手に抽出し、そこを中心に考察した大変偏った評論です。
以下長文失礼、ネタバレ御免
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万引き家族
是枝監督作品でキャストもすごい。期待感をマックスにして見にいったはずが、さらにその上を行かれて大号泣。
大きくテーマは家族で間違いない。リリーフランキーを父、安藤サクラを母としたこの家族は、誰も血が繋がっていない。一人ひとり事情は違っても、社会の中からはじき出されてしまった(出てしまった)、そんな存在だ。それなのにも関わらず、観客の誰もが印象に残るシーンはすべて家族を強烈に感じさせるシーンばかり、家族とは一体なんなのか、と、映画は観客を試しているようだ。
そんな中で僕の一番好きなシーンは、リリー父と息子(ほんとは他人)が夜、空き地で追いかけっこするシーンだ。街灯に照らされてはいるけど青く薄暗い空き地はまるで海の底のように見え、無邪気に遊ぶ二人は群れから離れた小さな魚のようだった。劇中でも示唆される絵本「スイミー」。大きな魚から群れを守るため、小さな魚たちみんなで集まってもっと大きな魚のようになって危険を回避するという、その物語は助け合う大切さを教えている。
縄文時代も助け合い生きていた。生きるために家族を作り、ムラを作り、さらに集落同士でも助け合い、資源を分け合っていた。横のつながりだけでなく、次の世代にも生き抜く術を伝え続けてきた。大切なことだと思うのでもう一度言おう。そもそも人は助け合わなければ生きられない動物なのだ。
現代の社会は縄文時代に比べて極端に大きくなってしまった。特に都会はそのスケールも人数も巨大だ。しかし大きくなったとしてもムラはムラだ。助け合わなければ生きていけないことに変わりはない。
映画ではこの擬似家族はやがて崩壊を迎える。群れから離れた小さな魚は生きていけないのだ。
リメンバー・ミー
大きくテーマは家族で間違いない。リリーフランキーを父、安藤サクラを母としたこの家族は、誰も血が繋がっていない。一人ひとり事情は違っても、社会の中からはじき出されてしまった(出てしまった)、そんな存在だ。それなのにも関わらず、観客の誰もが印象に残るシーンはすべて家族を強烈に感じさせるシーンばかり、家族とは一体なんなのか、と、映画は観客を試しているようだ。
そんな中で僕の一番好きなシーンは、リリー父と息子(ほんとは他人)が夜、空き地で追いかけっこするシーンだ。街灯に照らされてはいるけど青く薄暗い空き地はまるで海の底のように見え、無邪気に遊ぶ二人は群れから離れた小さな魚のようだった。劇中でも示唆される絵本「スイミー」。大きな魚から群れを守るため、小さな魚たちみんなで集まってもっと大きな魚のようになって危険を回避するという、その物語は助け合う大切さを教えている。
縄文時代も助け合い生きていた。生きるために家族を作り、ムラを作り、さらに集落同士でも助け合い、資源を分け合っていた。横のつながりだけでなく、次の世代にも生き抜く術を伝え続けてきた。大切なことだと思うのでもう一度言おう。そもそも人は助け合わなければ生きられない動物なのだ。
現代の社会は縄文時代に比べて極端に大きくなってしまった。特に都会はそのスケールも人数も巨大だ。しかし大きくなったとしてもムラはムラだ。助け合わなければ生きていけないことに変わりはない。
映画ではこの擬似家族はやがて崩壊を迎える。群れから離れた小さな魚は生きていけないのだ。
リメンバー・ミー
世界にはたくさんの宗教があって各々に死生観がある。それだけに日本のお盆に似たメキシコの「死者の日」をモチーフにしたのは野心的を通り越して、挑戦的と言ってもいいだろう。しかし公開されてみると世界中で大ヒット、その「死後の世界では生きている人から完全に忘れられた時に本当の死を迎える」というルールはその映像とあいまって、感情の深いところに刺さりまくり、世界中の映画館で鼻をすする音が聞こえてきたという。
縄文時代の死生観についてはまだまだわからないことが多い。もちろん彼らにも死者を悼む気持ちはあった。それどころか集落の中心に死者を埋めたり、家の入り口に幼い子供の死者を埋めたりしていた。そこには死者を忘れないようにしようという彼らの死生観が垣間見えてくる。
もちろん現代人である僕たちは分かっている。死後の世界などは無い、死とは肉体の死なのだと。しかしそれを理解していても僕たちに死者を悼む気持ちは消えない。死者は生者の祈りの中で、生者の思い出の中でしっかりと生き続けるのだ。
ウインド・リバー
縄文時代の死生観についてはまだまだわからないことが多い。もちろん彼らにも死者を悼む気持ちはあった。それどころか集落の中心に死者を埋めたり、家の入り口に幼い子供の死者を埋めたりしていた。そこには死者を忘れないようにしようという彼らの死生観が垣間見えてくる。
もちろん現代人である僕たちは分かっている。死後の世界などは無い、死とは肉体の死なのだと。しかしそれを理解していても僕たちに死者を悼む気持ちは消えない。死者は生者の祈りの中で、生者の思い出の中でしっかりと生き続けるのだ。
ウインド・リバー
今最も注目の脚本家、テイラーシェルダンの監督デビュー作。脚本を書いた、映画「ボーダーライン」やネットフリックス映画「最後の追跡」とも共通する現代アメリカの辺境が舞台だ。深い雪に閉ざされたネイティブアメリカンの保留地「ウインドリバー」で、ジェレミーレナー演じる主人公のコリーのネイティブアメリカンの友人マーティンの娘が殺される。厳しい雪山で犯人探しが始まるのだが…。
ストーリーは当然のように観客をグイグイと引き込み、突然起こる暴力に思わず仰け反り、カッコ良すぎるセリフにシビれ(テイラーシェリダンの作品はとにかくセリフが決まっている)、その解決にスカッとした気持ちにすらなれる最高に面白い映画なのは間違い無いのですが、個人的に突き刺さったのはラストシーン。ネイティブアメリカンのマーティンが娘の死を受け入れるために顔をペイントして、伝統的な儀式をしようとしたシーンだ。いや、儀式をしたわけではない。儀式のやり方も知らず、正しい顔面のペイントの仕方すら忘れ、ただただ膝を抱えしょんぼりするだけのマーティンの姿だ。
僕にはその姿が、弥生文化を受け入れ、縄文的な文化を忘れてしまった縄文人に見え、またその自己流の顔面ペイントの滑稽さもあいまって、ついつい泣き笑い。文化は数十年あれば簡単に書き換わってしまう。そのことは仕方のないことだ、そもそも文化は停滞しない。環境によって変化していくものだ。昔を懐かしむだけではなんの解決にはならない。ただ、必要な時にそれがなくなってしまっていることがとにかく悲しかった。
A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー
ストーリーは当然のように観客をグイグイと引き込み、突然起こる暴力に思わず仰け反り、カッコ良すぎるセリフにシビれ(テイラーシェリダンの作品はとにかくセリフが決まっている)、その解決にスカッとした気持ちにすらなれる最高に面白い映画なのは間違い無いのですが、個人的に突き刺さったのはラストシーン。ネイティブアメリカンのマーティンが娘の死を受け入れるために顔をペイントして、伝統的な儀式をしようとしたシーンだ。いや、儀式をしたわけではない。儀式のやり方も知らず、正しい顔面のペイントの仕方すら忘れ、ただただ膝を抱えしょんぼりするだけのマーティンの姿だ。
僕にはその姿が、弥生文化を受け入れ、縄文的な文化を忘れてしまった縄文人に見え、またその自己流の顔面ペイントの滑稽さもあいまって、ついつい泣き笑い。文化は数十年あれば簡単に書き換わってしまう。そのことは仕方のないことだ、そもそも文化は停滞しない。環境によって変化していくものだ。昔を懐かしむだけではなんの解決にはならない。ただ、必要な時にそれがなくなってしまっていることがとにかく悲しかった。
A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー
死に関する映画が多くなってしまったけど、この映画もやはり外せない縄文映画でした。
序盤でケイシーアフレック演じる男はルーニーマーラー演じる妻を残して自動車事故で死んでしまう。そう、この物語は妻を見守る地縛霊となった男の話だ。
生きている時から気だるく無口だった男は幽霊となり、より一層無口にただただそこに佇む。妻には彼の姿は見えない。悲しみに打ちひしがれていた妻もいつかは立ち直り、やがて新しい恋人ができ、男の佇む家から出て行ってしまう。男はその場所から離れられない。
時は流れ、時代は変わる。田舎だった周囲は高層ビルが立ち並ぶ都会へと様変わりする。まさに Travelling Without Moving。しかし、ある一点から男は自分の意思で過去に遡る。その理由もやはり切なく、またそのラストのキレの良さは強烈な余韻を残す。
シーツをかぶり、子供の頃に見たお化けの仮装のような、ビジュアルのセンスの良さだけでもおすすめですが、誰かを見守ること、誰かに見守られることについて深く考えさせられた作品でした。
縄文時代は森に見守られていた時代でした。森とは彼らを取り巻く自然です。彼らを取り巻く世界と言っていいでしょう。自然や動植物はカミであり、そこには意思が宿り、また自分たちもまたその世界と時に一体化し切り離せない存在でした。死んでいった仲間たちは、彼らを見守ってくれている世界の一部になったと考えていたのではないでしょうか。もちろんこれは僕の想像です。本当のところはわかりません。ただ、ふとした時に誰かに見守られていると感じることはないでしょうか。監視ではなく、悪意ではなく、ただ安心感を感じるような。
ROMA/ローマ
序盤でケイシーアフレック演じる男はルーニーマーラー演じる妻を残して自動車事故で死んでしまう。そう、この物語は妻を見守る地縛霊となった男の話だ。
生きている時から気だるく無口だった男は幽霊となり、より一層無口にただただそこに佇む。妻には彼の姿は見えない。悲しみに打ちひしがれていた妻もいつかは立ち直り、やがて新しい恋人ができ、男の佇む家から出て行ってしまう。男はその場所から離れられない。
時は流れ、時代は変わる。田舎だった周囲は高層ビルが立ち並ぶ都会へと様変わりする。まさに Travelling Without Moving。しかし、ある一点から男は自分の意思で過去に遡る。その理由もやはり切なく、またそのラストのキレの良さは強烈な余韻を残す。
シーツをかぶり、子供の頃に見たお化けの仮装のような、ビジュアルのセンスの良さだけでもおすすめですが、誰かを見守ること、誰かに見守られることについて深く考えさせられた作品でした。
縄文時代は森に見守られていた時代でした。森とは彼らを取り巻く自然です。彼らを取り巻く世界と言っていいでしょう。自然や動植物はカミであり、そこには意思が宿り、また自分たちもまたその世界と時に一体化し切り離せない存在でした。死んでいった仲間たちは、彼らを見守ってくれている世界の一部になったと考えていたのではないでしょうか。もちろんこれは僕の想像です。本当のところはわかりません。ただ、ふとした時に誰かに見守られていると感じることはないでしょうか。監視ではなく、悪意ではなく、ただ安心感を感じるような。
ROMA/ローマ
ゼロ・グラビティで気が狂うほどの長回しで宇宙空間を表現したアルフォンソ・キュアロン監督作。モノクロ。劇場未公開ネットフリックス映画。
1970年代のメキシコシティ、監督自身の自伝的作品。しかし主人公は彼の家で働く家政婦のクレオ。
淡々と日常は進む。それでも、描写と映像のみずみずしさで、けっして飽きたりはしない。途中、子供達が見にいく映画「宇宙からの脱出」がその後の「ゼロ・グラビティ」につながるということも示唆され、なんだか得した気分にもなれる。やがて家族の日常とは別にその背景である世界に暴力の影がちらつき始める頃、家政婦のクレオにも恋人ができ、妊娠し、そしてその恋人(とも言えない)との最低な別れを迎える。それでも日常は続くのだが…、思いっきりネタバレすると、あるシーンで暴力的で精神的にもショッキングな出来事が起こりクレオは流産してしまう。救えなかった命、看護婦に渡されたその手に抱いた子供はすでに息をしていない。
傷心のクレオを連れ、家族は海辺のリゾートに向かう。海ではしゃぐ子供達、しかし母親がいない時に子供達は海に流されそうになる。泳げないクレオは子供達を救いに海に入っていく。あらすじをダラダラと書いてしまったが、この海のシーンが今年見た映画の中でも一二を争う素晴らしいシーンだった(もう一つは「万引き家族」の空き地で遊ぶ父子のシーン)。長回しで、波で時折姿が見えなくなるくらい荒々しい海の中を躊躇なく進む泳げないはずのクレオ、やがて波に翻弄される子供達の姿が見え、一人ずつ抱きかかえ助け出す。浜辺で家族は一つになって抱き合い号泣する。この映画のポスターのシーンはそれだ。クレオは泣きながら「生まれてこなければよかったと思っていた」と自分の死んでしまった子供への正直でいて悲しく愚かな吐露をする。この海のシーンでクレオがすくいあげたのは溺れかけた子供たちであり、救えなかった自分の子供でもあり、生まれてこなければ良いと思ってしまった自分自身でもあったのだ。
生きるということは自然に立ち向かうことだ。どうしたって厳しいものだ。死や暴力は常に容赦がない。しかし、海に入っていくクレオの足取りは強かった。人には生きる力があるんだ、それでも生命というものは強いんだと。
惜しむらくは大きなスクリーンでこのシーンを見たかった。今年ナンバーワンの縄文映画でした。
ーー
かなり大作ばかりを選んでしまい、もう少し「通な」チョイスはできないものか自分でも反省しきりですが、しかし良かったのだからしょうがない。なにしろ「縄文映画」って縄文ZINEでしか言ってないわけだから文句をつけられてもしょうがない。ただし、今回上げたこの5本は縄文という視点でなくても個人的なベスト10には全部入っています。
以下は次点縄文映画。
ミスブルターニュの恋/シェイプ・オブ・ウォーター/タリーと私の秘密の時間/正しい日 間違えた日/聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア
みなさま年末年始は縄文映画でもどうですか?
良いお年をお過ごしください。
1970年代のメキシコシティ、監督自身の自伝的作品。しかし主人公は彼の家で働く家政婦のクレオ。
淡々と日常は進む。それでも、描写と映像のみずみずしさで、けっして飽きたりはしない。途中、子供達が見にいく映画「宇宙からの脱出」がその後の「ゼロ・グラビティ」につながるということも示唆され、なんだか得した気分にもなれる。やがて家族の日常とは別にその背景である世界に暴力の影がちらつき始める頃、家政婦のクレオにも恋人ができ、妊娠し、そしてその恋人(とも言えない)との最低な別れを迎える。それでも日常は続くのだが…、思いっきりネタバレすると、あるシーンで暴力的で精神的にもショッキングな出来事が起こりクレオは流産してしまう。救えなかった命、看護婦に渡されたその手に抱いた子供はすでに息をしていない。
傷心のクレオを連れ、家族は海辺のリゾートに向かう。海ではしゃぐ子供達、しかし母親がいない時に子供達は海に流されそうになる。泳げないクレオは子供達を救いに海に入っていく。あらすじをダラダラと書いてしまったが、この海のシーンが今年見た映画の中でも一二を争う素晴らしいシーンだった(もう一つは「万引き家族」の空き地で遊ぶ父子のシーン)。長回しで、波で時折姿が見えなくなるくらい荒々しい海の中を躊躇なく進む泳げないはずのクレオ、やがて波に翻弄される子供達の姿が見え、一人ずつ抱きかかえ助け出す。浜辺で家族は一つになって抱き合い号泣する。この映画のポスターのシーンはそれだ。クレオは泣きながら「生まれてこなければよかったと思っていた」と自分の死んでしまった子供への正直でいて悲しく愚かな吐露をする。この海のシーンでクレオがすくいあげたのは溺れかけた子供たちであり、救えなかった自分の子供でもあり、生まれてこなければ良いと思ってしまった自分自身でもあったのだ。
生きるということは自然に立ち向かうことだ。どうしたって厳しいものだ。死や暴力は常に容赦がない。しかし、海に入っていくクレオの足取りは強かった。人には生きる力があるんだ、それでも生命というものは強いんだと。
惜しむらくは大きなスクリーンでこのシーンを見たかった。今年ナンバーワンの縄文映画でした。
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かなり大作ばかりを選んでしまい、もう少し「通な」チョイスはできないものか自分でも反省しきりですが、しかし良かったのだからしょうがない。なにしろ「縄文映画」って縄文ZINEでしか言ってないわけだから文句をつけられてもしょうがない。ただし、今回上げたこの5本は縄文という視点でなくても個人的なベスト10には全部入っています。
以下は次点縄文映画。
ミスブルターニュの恋/シェイプ・オブ・ウォーター/タリーと私の秘密の時間/正しい日 間違えた日/聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア
みなさま年末年始は縄文映画でもどうですか?
良いお年をお過ごしください。